フィードのエコシステム変遷から振り返る過去。

私はフィードリーダーを愛用している。

今やRSS/Atomフィードを消化する人間もすっかり減ってしまったのではないのか、という危惧を長らく持っていて、それを裏付けるかのように、新しいサイトでは、フィードを吐かないといったケースを見かけることも徐々に増えてきた。

以前の私であれば、ロジャースの普及曲線の話(Innovatorからはじまり, Early adopter, Early majority, Late majority, Laggardsに向けて普及していく、その普及曲線と彼らの分布の理論)や、そもそも好きものから自然と広まるのが良いことだ、そしてそれらが入れ替わるときは、入れ替わるべきときなのだ、と言っていそうではある。

がしかし、フィード購読のエコシステムの代わりに出てきたものといえば、ニュースキュレーションシステムやソーシャル・ネットワークにニュースを重畳させるようなものばかりで、彼らがフィード購読システムの代わりかというと、だいぶ異なると思う。

もちろん、彼らが時代にマッチしているというのはわかる。

フィードリーダーでは、ふつう、フィードリーダーソフトウェアを用意して、それに購読したいサイトを登録する。フィードリーダーソフトウェアは、Feeldyのようなオンラインサービスでも良いし、スタンドアロンソフトウェア−MacならReeder 3や、昔ながらのMail.appなど−でもよい。
そして、これらに自分の好きなサイトを登録すれば良い。といっても、更新された記事を読むためのツールなので、登録するのはポートフォリオなどではなく、おおかたニュースやブログとなる。

たったこれだけ。

たったこれだけなのだが…結局のところ、後者が難しいのだろう、ということを強く感じている。

これって、Twitterのフォローと一緒だ。アカウントをつくり、人をフォローする。たったそれだけの何が難しいと言われてしまうかもしれないが、誰をフォローすべきかなんてわかるだろうか?と思う。

昔、オンラインでよく知り合いが集う場所があった。そのときの知り合いをあしがかりに、初めのTwitterの知人グループを形成したのが高校生時代の初頭。

大学生になると、その知り合い経由でオフラインイベントに参加するようになり、そこからソーシャルグラフが拡大していき、他方では学科、そしてなにより技術サークル経由で知り合い増えていき、それに従いTwitterのフォロー・フォローされも拡大していった。

フィードの購読グラフ拡大は、これとずっと異なる広がり方をしたが、それでも、まず自らに読みたいというサイトがあり、そこを軸に周辺の気になるサイトへ拡大するという流れをとっていたと思う。

一番昔から読み続けていたのは、感覚的には、Slashdotや TechCrunch, Engadget, Lifehacker, WIREDあたりだったと思う。典型的かはともかく、しっかり技術オタクな少年であった。

フィード外の技術的読み物で最も印象深いものといえば、山形浩生さんのcruel.org−特に、エリック・レイモンドによる『伽藍とバザール』や『ハッカーになろう』あたり−だが、この話は置いておこう。

技術以外の分野でいうと、村上龍さんの『JMM』(注: 以前はオンラインで様々な寄稿がされていた)や、渡辺千賀さんの『On Off and Beyond』、 Ultravioletさんの『Raurublock』、active_galacticさんの『Active Galactic』、いまはなき『Orbium -そらのたま-』などか。

藝術及びその他でいうと、今はAdobeに買収された、アーティストポートフォリオサイトであるBehanceや、怪しいもの盛りだくさんのX51.ORGなんかを想像力の種にしていたと思う。

これらを追いかけられた理由の一つに、ひとえに当時自分が時間を持て余していたことは大きいと感じる。

当時から、言われていたことは、「フィード死」や「フィード破産」だ。これは(今はなき)Google Readerを使っていた人よりもLivedoor Reader(現Live Dwango Reader)を使っていた人たちに言われていたことだが、ようするに未読件数が1000件をゆうに超えて、とてもじゃないけど消化しきれなくなった状態のことを指す。

それでも、高校生ともなると夜通し起きていても次の日もケロっと過ごせるもので、持て余した時間と体力で、ひたすらああでもないこうでもないとテキストをもりもり消費し、破産は回避していたと思う。

(そのうえでもりもりコードを書き、デザインを作り、文章もアウトプットしていたのだから、今となってはおそろしい。)

また、未読だけではなく、新たに読みたいサイト、読むべきサイトを探すのも飄々と行っていたと思う。

しかし、それらが行えたのは、体力と時間だけではない、とも強く感じている。

要するに、ネットが静かだったのだ。

各サイトも、まだ退廃的なキュレーションサイトが跋扈する前で、さまざまな個人が −あとで知ったが、彼らは優秀な出であることが多かった− さまざまなトピックについての思索を、盗まれたり叩かれたりする心配も少なく書き連ねていた。

そして読み手についても、早い時代にコンピュータに没入しようと思えるだけの条件が成立した人しかそれをしていなかったのもあり、めいめいに思想と良心の自由を穏やかに行使していたように見えた。

そんな時代だから、読みたいと思えるテキストコンテンツは見つけやすく、そしてそれ探すのにジャンクコンテンツを避けるための労力も少なかった−こういう印象がある。
そして、それらを静かに読むための環境も整っていた。

今で初めて触れてから10年経つことになるTwitterは、良くも悪くも自分のメンタルに深く食い込んでしまったのでもはや切り離すことは難しいが、それでも、確実にTwitterによって、以前であれば大きな塊としてアウトプットしていたであろう思考も小出しで吸い取ってしまうし、それ以上に、常日頃から24/365で自分の思考にノイズを送り込み続けている、と思う。

これと同じことは他人に対しても起きているはずで、今や思索をブログに書くというのは、それができるだけの知的・経済的基盤があり、各種ソーシャルサイトの誘惑を絶ち、
そしてなにより思索を公開することによるリスクをある程度許容しようという人しか行わなくなってきたと感じる。

小出しの思索や気になるニュースへのコメントなら、ソーシャルフィードに流したほうがよっぽど手軽ですぐ反応があり楽なものだ。

そして、ものを読む側についても、まずソーシャルメディア上でのトピック流通が多くなった現在では、フィード購読ソフトウェアはSNSの発言購読とは相性が悪いという問題も考えると、ソーシャルメディア解析などを内包した自動キュレーションソフトウェアに頼ったほうが手軽で便利という側面もある。

自分が何を読むかを自分の手で決めたいのでなければ。
自分が何を読まされるのかに介入されたくないのでなければ。

巨視的な視点でみれば、トピックとそれに対する反応の流通が密で迅速なグラフで結ばれるようになったというのは、とても興味深い。

SFチックに言えば、人々が一つの思念体に結びついていっているようですらある。
知見がやりとりされるだけではない。感情もまたやりとりされる−情動感染と言われるように。

しかしそれでも、だ。

私は、1次独立でいたい。
私は、自分が何を読むかを自分で決めたい。
自分が何を読まされるかを自分でフィルタしたい。

Web2.0という言葉(ウワッ、懐かしい!)が流行した当時、James Surowieckiによる『The Wisdom of Crowds(群衆の叡智)』という書籍が出版された。本書で言いたいことは「群衆による判断というのは好ましい判断である」という法則であり、それをさまざまな実例つきで解説しているが、これが実現するための重要なファクターには「それぞれが独立した意見を持っていること(試訳)」が掲げられていた。

「人々にの思想を偏らせる最も簡単な方法、それはお互い同士を情報源にし、情報面にて相互依存させることだ。(試訳)」とも。

私は、1次独立でいたい。
私は、自分が何を読むかを自分で決めたい。
自分が何を読まされるかを自分でフィルタしたい。

だから、私はフィードをリーダーを今後も愛用し続けるだろう。